我は聖なる公同の教会を信ず。 ~使徒信条~

これまで聖書の神について、父・子・聖霊の順で記してきました。恵みにより信仰によって生み出されたキリスト者を養い、育てるのが「母なる教会」です。私たちは天に父なる神を持ち、地にある母なる教会で成長します。「教会」と訳されていますが、厳密に言えば「召会」です。神に召された者たちの集まりだからです。私たちはそれを「集会」と呼んできました。では、聖なる公同の教会とは何でしょうか?

キリスト教会は、カトリックとプロテスタント他に分かれています。プロテスタント諸教会は、更に多くの教派に分かれています。それが目に見える教会の現実です。そのような中で冒頭の「聖なる公同の教会」とは、教派・宗派を超えた教会で、それは目に見えませんし、1つだけの教派に限定されていません。神が召されたキリスト者に教派の壁はないからです。使徒信条という最も基本的な信仰箇条を信じる教会には、カトリックかプロテスタントかの区別はありません。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソ1章22、23節)

教会は建物としての教会堂を指すのではなく、キリストを信じる者の集まりのことです。キリストを頭とする霊的有機的な共同体です。ですから、教派に分かれている状態は正常ではありません。1つであるべきです。コリント教会は、内部でパウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派と争っていました。そこでパウロは、「キリストが幾つにも分けられてしまったのですか」と手紙に書いています。「わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(Ⅰコリント1章10節)。教会が地上にある限り、人間的な要素が入り込みます。しかし、それでもそこは「神の教会」です。だから、コリントにある神の教会へ(1章1節)、とパウロは挨拶の宛名を書きました。目に見えない公同の教会へと、神は私たちを招いておられるのです。