イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。(ヨハネ13章7節)

 これは、過越しの食事をする席に12弟子が座った時、主イエスが上着を脱ぎ、たらいの水で弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始めた場面での言葉です。驚いたペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と、言いました。奴隷のすることを、先生である主がされたからです。どうして、そのようなことをされるのか分からなかったのです。それに対してイエスは、後で分かる、と答えられました。後でとは、いつでしょうか?主イエスの十字架と復活・昇天と聖霊降臨を経てからです。その時は、何のことだかさっぱり分からなかった洗足の意味が、内から湧くように分かったのです。それが、聖霊によって分かる体験です。聖霊の重要な働きは、主イエスに起きた出来事の意味を、説き明かすことにありました。後で分かると、本人から教えられる以上の理解が届くものです。

良い例かどうか分かりませんが、私の父のことを理解できたのは、父が亡くなった後、そして、自分が父親になったときでした。しみじみと分かったのです。それと全く同じではないでしょうが、先生であり主であったお方のことを、聖霊が説き明かされた時の感動はとても大きなものだったでしょう。その時は、分からなかっただけに、申し訳なさも加わって、内から湧くように分かったと思われます。聖霊のお働きです。

主イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章52節)と、ご自分のことを語られています。神であり主であるお方が、罪人である私たちに仕えられたのです。なおかつ、身代わりとして命を献げたのです。愛の極みです。本当は、私たちが主イエスに仕えるものです。そうではなく、主の方が低くなってくださったのです。ヨハネは「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたに示したとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(13章14,15節)と書き残しました。聖霊は、自分ではなく主イエスを指し示し、説き明かしました。