もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の1人にしてください。 (ルカ15章19節)
仏典・法華経に「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)」のたとえ話があります。放蕩息子のたとえ話との違いは、帰って来た息子を雇い人(使用人)の1人にするか否かにあります。
長者は大富豪で、窮子は家を出奔した息子。父は懸命に捜しますが、見つけることができません。何十年もの時が経ったある日、息子はそうとは知らず父である長者の屋敷に来ます。落ちぶれ、食うにも困っている様子です。父は一目見て息子だと分かり、連れ戻そうとしますが、息子は父だと分からず、捕まえられると思い、恐怖の余り気を失います。これではいけないと思い一計を案じ、息子を雇い人の1人として便所掃除の仕事をさせます。そうして息子は何十年も働きます。修行に当ります。長者は年老い、死期も近くなった頃、ようやく「実は、お前は私の息子だ」と告白します。そして、莫大な全財産を息子に譲ります。
以上が、法華経にある長者窮子の話です。放蕩息子のたとえ話と比較すると興味深い違いに気づきます。帰って来た息子を、あくまでも息子として受け入れるのか雇い人とするかです。ここに、キリスト教と仏教の違いが表現されています。その前に共通点を挙げます。それは、私たちが子どもである点です。そして、本来在るべき家を勝手に出たこと、さ迷い、落ちぶれ果てたことです。家に戻って来る前、放蕩息子は「自分には息子の資格はない。雇人の1人でもいい」と、考えます。ところが父は、どんなに堕落していても息子として迎えます。息子として相応しくなったらではありません。長者の方は、修行を経て相応しくなってから、私の息子だと宣言しています。
さて、放蕩息子のたとえ話が示すキリスト信仰とはどのようなものでしょうか。父の家に迎えられる資格はない、と言わせないで、無条件で息子(神の子)として迎えます。修行を積んで相応しくなってからではありません。救いは行いのよるのではなく、父神の憐みの故だからです。更に、イエス・キリストが負債の代価を身代わってくださったからです。放蕩息子だった息子は、父の家で大いに働いたでしょう。父の子に相応しくなろうと、自らの聖化と成長に励みました。でもすべては恵みに依ります。エフェソ2章1~9節にある通りです。救いは恵みにより信仰によるのです。