ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15章20節)

イエス・キリストは、どのようなお方でしょうか。イエスご自身が語られた「放蕩息子のたとえ話」(ルカ15章11~32節)から、読み取りたいと思います。

自分勝手に家を出たまま、一向に帰らない息子を待ちわびる父がいます。息子は、遺産としてもらった財産を放蕩に使い尽くし、今度は、食べるにも困るまでになります。汚れた動物とされている豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたいのに、それさえできないのです。飢え死に寸前のどん底まで落ちた時、はっと我に返ります。本来の在るべき自分に気づきます。今まで当たり前と思っていた、父の家でのことが思い出されます。私たちも、神の恵みを当たり前と受け取っていないでしょうか。失って初めて分かるのですが、それは私たちも同じです。失うまで気づかないのです。放蕩息子は父のもとに帰ろうと決心します。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の1人にしてください」と、言おう。

しかし、今更…、追い返されるかも…、足取りも重く逡巡しつつ歩いたでしょう。そんな息子を遠くに見つけた父は、冒頭の聖句のように、走り寄ります。老いた父が走ったのです。憐みに溢れて走り寄る父。息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と、涙ながらに言います。言おうと考えていた「雇人の1人にしてください」を決して言わせない父です。あくまでも、わが子として迎えているからです。そして、破格の喜びを示します。

見失った1匹の羊を見出した時のように、無くした銀貨1枚を見出した時のように、いやそれ以上の喜びを表現しています。主イエスが示した父なる神は、罪に落ちた人間を見つけるまで探し求めるお方であり、資格がないと言う息子のもとに走り寄り、憐れみから抱きしめる父です。そして、ここに主イエスご自身が示されています。仏典・法華経に「長者窮子」のたとえ話があります。次回、それとの対比を記します。