そこで、イエスは次のたとえを話された。  (ルカ15章3節) 

イエス・キリストは、どのようなお方でしょうか。このお方について、ご紹介します。旧約と新約聖書の中心に立っておられるお方ですが、その語られる言葉は神の言葉となり、聞く人を慰め、癒し、心を燃やしました。素晴らしい語り手であり、会話の名手でもありました。身を持ち崩したサマリアの女と、井戸の傍らで話し、彼女を救ったことがヨハネ4章に記されていますが、まことに見事な会話の導き手です。

多くの人々は主イエスの話を聞くために、また、癒しを受けるために群がるように主の御許に出かけました。遠くて辺鄙な場所にもかかわらず、1万にも及ぶ人々が集まりました。何も食べる物がなくても3日間も、そこに居たとあります(マルコ8章1~)。そことはイエスの居られる所です。そこで、どのような内容のお話をされたのかは、何も書かれていませんが、非常に分かり易く、日常生活を例にとった話であったと考えられます。その1つが、たとえ話です。冒頭の聖句から「1匹の迷える羊」の、たとえ話が始まります。更に、「無くした1枚の銀貨」「放蕩息子」のたとえ話へと続き、その話にはイエス様ご自身が言い表されています。ルカ15章です。

100匹の羊の中から1匹が迷い出ます。1匹なら仕方ない、とは考えません。必死になって捜し回ります。見つけ出すまで捜し、見つからないからと諦めません。「ま、いいか仕方がない」とは言いません。これは銀貨を無くした女にも共通します。部屋中、ともし火をつけて捜します。見つけるまで念を入れて捜します。

聖書は「人間を探し求める神」を指し示します。罪を犯し身を隠したアダムに「あなたはどこにいるのか」と問いかける神です。本来在るべき場所から迷い出た私たちを、見つけるまで捜し回ります。そして、見つけたら大喜びで肩に担ぎ、家に帰ります。預言者イザヤは、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる(62章5節)と、主イエスを言い表しました。この話を聞いた人々は、自分が失われた罪人であったこと、しかし今は、このお方によって見出され、主イエスの肩に担がれていることを実感したに違いありません。イエスとは、そのようなお方なのです。今、あなたの魂は、神の前におられますか?