罪が支払う報酬は死です。(ローマ6章23節)
罪を犯せば死が罰則として与えられます。罪の側から言えば、罰則ではなく報酬です。その死には2種類あります。体の死と霊の死です。重要なのは霊の死です。次の聖句に、それが表されています。
父を亡くした人が、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言うと、イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(ルカ9章60節)
前者の死んでいる者たちは、体は生きていますが、イエスの目には死んでいます。後者の死者は、少し前に死んだ父親のことです。神を信じない人は、霊的には死んでいます。霊の命がないからです。死がそうであるように、命も2種類あります。肉体の命と霊の命です。霊の命とは神の命です。永遠の命です。それを踏まえて、主イエスはマルタに言われたのです。
わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか. (ヨハネ11章25,26節)
死んでも生きる=体は死んでも、霊は御国で生きる。
決して死ぬことはない=神と断絶する霊の死はない。
イエスを信じる者は、その主の命を受けているから。
少し、混み入った表現になりましたが、聖書は体の死よりも、神との関係が切れる霊の死を重要視しています。始祖アダムが罪を犯した結果、死が入り込みました。アダムとエバは神に背き、食べてはいけない善悪の知識の木の実を食べました。食べたら必ず死ぬ、と言われていましたから、死んだはずです。ところが体は死んではいません。しかし、神との関係が断ち切られる霊の死が起きています。2人が神に背を向け、神から隠れたのが、その表れです。それ以後、私たち人間は神の霊と命を失ったまま生きねばならない苦しみ、病・老い・死が人生の課題となりました。それが私たち罪人の現実です。対処療法ではなく、根本的な治療を必要としています。それは失われた神との関係が回復し、霊の命が与えられることです。幹から切り離された枝が元の幹に接ぎ木されることです。それが救いです。その救い(神の霊と命の回復)を与えるため、神から遣わされたのがイエス・キリストです。