初めに、神は天地を創造された。(創世記1章1節)
名前は次のとおりである。(出エジプト1章1節)
…モーセを呼んで仰せになった。(レビ記1章1節)
…シナイの荒れ野にいたとき、 (民数記1章1節)
モーセはこれらの言葉を告げた。(申命記1章1節)

旧約聖書の初めの5巻は、「モーセ五書」と呼ばれます。私たちは、創世記、出エジプト記…と呼んでいますが、原典には、そうした題は付けられていません。文頭の言葉で、巻物全体を呼んでいました。冒頭の聖句の太字にしたのが、その言葉です。創世記は、日本語訳でも「初めに」が文頭の言葉ですが、それ以外は違っています。ヘブライ語の書名では、創世記は「ベレシート(初めに)の書」と呼ばれました。出エジプト記という題は、ギリシャ語聖書がエクソドス(脱出・出発)と題を付けたことに由来しています。レビ記はレビ人(祭司として聖別されたレビ部族)のために記された礼拝規定(いけにえの献げ方等)が中心なので、その題が付けられました。民数記は文字通り荒れ野を旅する内容です。1章と26章に2回、民の数を数える人口調査を行ったので、それを題にしていますが、それは漢訳聖書の影響です。私たちにとっても、人生は荒れ野の旅です。そして、世代交代が見られます。その折、信仰の継承は果たされたのか否か、も読み取れます。最後の、申命記の「申」は再び繰り返すの意で、「命」は、主がモーセを通して命じられた言葉(律法)です。約束の地カナンを目の前にして、モーセが新しい世代の民に語った言葉が申命記の中心です。民数記が記す不信と反逆にもかかわらず「言葉」を語り続ける神が、申命記の題に表されています。その言葉には、新約の福音が示されています。モーセはイエス・キリストの型です。

五書を書いたのはモーセだと言い伝えられているので、「モーセ五書」と今でも呼ばれます。5つの書全体で律法を示していますが、これと対応するのが新約聖書の福音書です。新しい律法としての福音です。イエス・キリストのご生涯(特に十字架の死と復活)と語られた教えが、4つの福音書に記されています。

聖書を繰り返し読む喜びは、モーセ五書が如何に深い教えを秘めているかに気づくことで与えられます。無味乾燥にしか思えなかったレビ記や民数記が、いかに私たちの現実と深く関わっているかを知る時です。

主イエスは、この五書を繰り返し身読(しんどく)されたのです。