ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。(創世記40章23節)

聖書には多くの物語が記されています。上記の聖句はヨセフ物語の中の一節です。夢を解き明かす能力を授かっていたヨセフは、王の高官である給仕役の見た夢の解釈をします。そして、その通りになります。出獄したら、ヨセフのことを王に取り計らうことを約束します。ところが、彼はその事をすっかり忘れてしまいます。ヨセフは期待して待ったでしょうが、何の音沙汰もありません。待てど暮らせど…。2年の時が流れます。ヨセフの心境は何一つ記されていません。聖書が世の小説と決定的に異なるのは、人間の心理描写を殆どしていないことです。それは、ヨセフ物語だけではありません。聖書全体がそうです。アダムとエバが蛇に騙された時の心理描写も、楽園を追放された時の心の内も何一つ記されていません。ダビデがバト・シェバと不義の関係に陥った時の心理描写も、彼女から妊娠したとの連絡を受けた時の心理も何一つ書かれていません。聖書が小説と異なるのは、その点です。

聖書は繰り返し読んでも、その都度、新しい発見があります。物語は既に知っているはずなのですが、そうだったのかと新しく教えられます。行間をどう読むかです。ルカ15章「放蕩息子の例え話」は繰り返し語られますが、それぞれ違った味わいがあります。聖書が他の書物と違う一面をそこに見ます。私たち人間の心理描写が中心の小説と較べて、それらを一切しない聖書は、その行間に秘められた神の内面・みこころを読むよう勧めています。それが行間を読むということです。そこで重要なのが聖霊の働きです。秘められた行間を教え示してくれるのが聖霊だからです。聖霊は祈りによって働かれます。聖書は神の言葉ですから、解き明かしてくれるのも神御自身です。神は聖書を通して語りかけておられます。神御自身の内面にある思いを、伝えてくれるのが聖霊の働きです。私たちは人間ですから、人の心理に関心があります。だから、小説には必ず心理描写があります。しかし、聖書はそれを省いています。神の思いを、物語から読み取るためです。神であり人であるイエス・キリストを通して、神は絶えず語りかけておられます。独りで読むだけでなく、集会を通して皆で分かち合いながら読むことによって更に深く行間が読めるようになります。