聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって… (2テモテ3章16節・口語訳)
新共同訳では、聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ…と訳されています。霊感とは、神の息である霊が吹き込まれることです。しかし、天理教の教祖に神の霊が乗り移り、自動書記のようにして書かせたものではありません。神の霊に導かれつつ、書き手の知性や体験などが、総合的に統一され書かれたものです。聖書は多くの著者によって書かれていますが、どの書(巻物)もすべて神の霊に導かれて書かれています。聖書を繰り返し読みながら、その霊感に触れるのは、同じ箇所を何十回となく読みながらも、その都度、新しく教えられる時です。そこに、人の書いた小説との違いがあります。また、1000年以上の長い隔たりがありながらも、旧約聖書39巻は1つの主題(救い主・キリスト)に統一されていることです。打ち合わせてそうしたのではありません。それも霊感によるものだからです。神が著者だから、そうなるのです。
エレミヤ書を読んで気づいたことは、「主の言葉がわたしに臨んだ」「主はわたしに言われた」「主は言われる」等の言葉に満ちていることです。これはエレミヤだけに限ったことではなく、預言書全部がそのようです。「私はこう思う」「私はこう言う」等の言葉は皆無です。間違っても、そのような事は言いません。主の口となって、主なる神の言葉を語るのが預言者だからです。しかし前述しましたように、単なる機械になるのではありません。神は預言者の個性や特質を活かして語りかけています。ホセア書とアモス書がエレミヤ書とエゼキエル書が対照的なのは、そのためです。旧約聖書は捕囚後に成立しますが、その時、どの書を正典とするかが選別されました。エゼキエル書は、最後まで問題視された書の1つです。その時、外典と呼ばれる書郡は正典とはされませんでした。カトリックでは第2正典としていますが、プロテスタントは認めませんでした。だから、礼拝で外典を用いるのは慎重にすべきかも知れません。神の言葉である聖書を信仰の中心に置くのは、霊感によって書かれた書だからです。新約聖書に於いても同じで、福音書は4つだけが正典とされていますが、それ以外にもトマスが書いた福音書などがあったのです。聖書は祈りながら聖霊の導きを求めて、読むべきものなのです。