主よ。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。(詩篇5篇3節・新改訳)

 私の経験を述べます。大学1年生の6月、主を信じました。そして8月、所属していたKGK(キリスト者学生会)の夏期学校に参加しました。そこで奨められたのが、「朝、起きたら、先ず神に祈り、聖書を読み、黙想しなさい」でした。冒頭の聖句は、そのモデルです。ダビデは朝毎に神の御前で備えをして、神からどのような言葉が与えられるか見張りました。最新の共同訳では、主よ、朝に私の声を聞いてください。朝が来る度に、あなたに向かって身を整え 待ち望みます。
私達も、そのように朝の時間を過ごしたいものです。

それから、聖書は全巻を通して読みなさい、とも言われました。通読です。ただ、誰もが同じだと思いますが、聖書を全部読み通すのは簡単ではありません。特に旧約聖書がそうです。中でも預言書は、読むには読んでも意味が分かりませんでした。歴史が記されている創世記~歴代誌は、絵の入った聖書物語の助けを借りて読みました。列王記は、北王国と南ユダの王の名前が同じであったりして混乱しました。歴代誌は膨大な系図(名前の羅列)に辟易しました。聖書は手引きが必要だと思いました。そのようにして、辛うじて全部通読したのは、神学校に入ってからでした。几帳面な性格が幸いして、日課を決めて、毎日必ず聖書を読むのを止めませんでした。誰もが毎日3度の食事をするように、聖書を霊の糧として毎日読むのは当然と考えたからです。何でもそうですが、一度達成すると次もできるようになります。

元日に創世記1章から読み始める通読ガイド(365日その日に読む箇所が指示されている『デイリーブレッド』)に従って、1年で読み終えるようになりました。1年の終わりは、マラキ3章と黙示録22章を読みます。弱い私にはガイドが必要なのですが、何度読んでも未だ十分に読み込めたとは思いません。詩人の西条八十は、晩年に「私は一生、詩と言う蝶を追い続けましたが、まだ捕えることが出来ていません」と述懐しました。その気持ちによく似ています。聖書は、生涯を懸けて取り組むに値します。その中に宝(高価な真珠)が隠されているからです。それを見出した者は、すべてを売り払って、その宝を買います(マタイ13章46節)。イエス・キリスト御自身が、その宝なのです。