死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで示している。(ルカ20章37節)
私たちの使っている聖書は、章と節で区分されています。しかし、聖書の原典にはそれらがありません。66巻がそれぞれの巻物になっていて、区切りはありません。それで、冒頭の聖句にあるような言い方がされるのです。『柴』の箇所とは、出エジプト記3章6節を指します。まだ、聖書に章や節が付けられていないから、そのような表現がされているのです。それだけで分かったのは、皆が聖書をよく読んでいたからです。ユダヤ教の会堂では、モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)が1年間で全部朗読されていましたから、聞いて憶えたのです。
聖書の最初の原本は、今では失われていますが、写本といって書き写した巻物が沢山残されています。その1つがイスラエル博物館に展示されていますが(イザヤ書の写本)、それを見ると、章や節の区切りが1つもありません。これですと読みたい箇所を指示するのが、とても難しいわけです。今では考えられない話です。では、今の聖書に付いている章や節の区分は、誰が、いつ頃付けたのでしょうか。
最初は、章区分から始まりました。1227年に、カンタベリーの大主教スチィーブン・ラントンが、聖書全巻の章区分をしました。それから300年後、学者であり王室御用印刷屋だったエティエンヌ(別名ステファナス)が節区分をしました。正確には、旧約聖書はユダヤ人ラビのナタンが節区分をし、その後、エティエンヌが新約聖書の節区分をしたのです。そして自らが印刷して、1560年に旧新約聖書を出版しました。その区分が今も使われています。私たちは最初から章節がある聖書を読んでいますから、それが当たり前で、最初からそうだったように思いがちですが、原典にはなかったのです。章と節が付けられたお蔭で,引用箇所を特定し,人に伝えたりすることが容易になりました。ですから、章と節の区分は便利なものですが,全体像をつかむこと,つまり神が与えてくださったメッセージ全体を理解することの大切さを忘れてはなりません。個々の節を読むだけではなく,文脈を読む習慣を持ちたいものです。そのようにすれば,「聖なる書物」をいっそうよく知ることができるでしょう。