初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1章1節)

 私たちの信仰は聖書が土台です。聖書が規範です。聖書が神の言葉だからです。聖書はバイブルと呼ばれますが、「本の中の本」という意味です。世の中には無数の本がありますが、聖書は特別な本だから、そう呼ばれます。聖書の「聖」は「清い」ということではなく、他とは「区別された」を意味する聖です。他とは明確に区別(聖別)された、本の中の本、それが聖書です。霊感を受け、神の霊である聖霊に導かれて書かれているからです。それで聖書のことを、御言葉(みことば)と言います。それは、冒頭の聖句に由来します。イエス・キリストのことをヨハネは、言(ことば)と表現しました。ことばは言葉と書かれるのが普通ですが、その根源であって、枝葉ではないので、言と訳されています。ロゴスが原語です。人格を持ち、聖書の中心であるロゴスは、万物の初めであり終わりであり、神そのものであるイエス・キリストです。それに対して、レーマと言う原語があります。それは、聖書を読み、そこから個人的な語りかけとして受け取った御言葉のことレーマと言います。聖書は生ける神の言葉です。いのちのパンであり「命の言葉」(使徒5章20節)と、呼ばれています。信じて読む者に、命を与える本なのです。私たちが毎主日に献げる礼拝において、聖書であるロゴスが読まれ、みことばであるレーマが語られるのは、そこに神が臨在されるからです。そして,パン裂きで主の命が与えられます。

年を取ると誰でも目がかすみ、視力もすっかり衰えるものだ。目の前に立派に整頓され文字もはっきり印刷された書物を出されても、書物だとは分かっても、単語の一つ二つも読めない現実がある。しかし、眼鏡と言う助けさえあれば、文字をはっきり読むことが出来る。ぼんやりした神認識を、より明確にしてくれるのが聖書で、眼鏡の役割を果たす」と、カルヴァンは書いています。これを読んだ時、なるほど、と思いました。聖書は眼鏡であり、それを通して私たちは、神とはどのような御方なのか、どのように働いておられるのか等、創造主であり父である神について、初めて正確に知ることが出来るからです。聖書はそれだけではなく、神を知ることによって、私たちは自分がどのような者であるかをも示し、教えてくれるのです。