『ラビ・ベン・エズラ』(第25連)

 神の轆轤(ろくろが この壺を形作った。

壺は人間を、轆轤は回転する人生を、陶工は神を指す.

わたしたちは粘土、あなたは陶工
わたしたちは皆、あなたの御手の業(イザヤ647節)

神は轆轤に粘土である私たち形作っていかれます。私たちは陶工である神の手の中にあります(エレミヤ18章6節)。26連でもそれが述べられ、27連では「時の轆轤」と言い、長い時間をかけて人生という轆轤の上で創り上げられて行く品性と人格。その仕上げが、老年期だと言うのです。作者は老年期を積極的に受け取めています。28連に、可塑性(どんな形にでも自由に形を作り変えられる=プラスチックの本来の意味)に例えられています。作品としての最後の仕上げ(完成)が老年期で、どんな人生を歩んだとしても、また、どれほど品性が低かったとしても、老年期までに練られ最善なものに変えられると理解しているのです。その通りでしょうか。現実はそう上手く行かない?

ダビデ王は多くの日を重ねて老人となり、衣を何枚も着せられても暖まらなかった。(列王記上11節)
すぐ前のサウエル記から、若く精悍なダビデの姿が脳裏に残ったまま上記の聖句を読み、強い衝撃を受けました。背が曲がり、ヨロヨロ歩くダビデが浮かびます。人は皆このように老いるのだ、と悲哀さえ覚えました。老いは誰にとっても初めての経験です。他の人を見て老いたらどうなるかを知っても、それが自分のことに結び付くのは同じ経験を経てからです。人の名前が思い出せない、と聞いていました。それが自分のことと結び付いたのは、同じように人の名前がすぐに思い浮かばない経験をしてからの事。賢者コヘレトが12章で描写しているのは、心身の老化です。老いて、毎日、何の楽しみも喜びもなくなった人を描きます。目は霞み、耳は遠くなり、足腰が弱くなり、性欲も無くなり…と。そして、死に至る、ああ何と空しいことか、と述べています。もし神を信じないなら、一切は空しい、と。これが旧約の限界。この世の限界。しかし、私たちは主イエスの復活から来る新約の恵みに与れます。心身は老いによって衰えようとも、それにもかかわらず希望があります。老いを否定的にではなく肯定的に受け取るからです。それをブラウニングの詩から学んでいます。老いの経験はマイナスが多いのですが、そこにさえ、わくわくする経験があるのです。