『ラビ・ベン・エズラ』(第2024連を要約します)

20:義と善と無限なる御方(神)を、確信をもって言い表すことができるなら、今や十分だ。若い日のように、理屈理論で神を知るのではなく、絶対的知識(自分の手は自分のものと名指しできるのと同じく)をもって神と信仰を語れるなら。それが老年の恵み。過去の自分を回想し、暗愚だったと述懐できる老年でありたい。孤独を本当の意味で実感するのが老年。そこに至って、義と善と無限なる御方に向き合える。静まって、わたしこそ神であることを知れ。(詩4610節)

21-22:意見が対立して、どちらが正しいのか判断が付きかねることがあります。そんな時には、その人の持つ価値観を知ること。どんな価値基準を持っているか、何を第一にしているのか、と。主イエスは、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(日々に必要な衣食)はみな加えて与えられる(マタイ6章33節)と教えられました。神を第一にする価値観です。聖書は正典(カノン)でカノーンというギリシア語は尺度・規準という意味です。ヘブライ語ではカーネーとなり、葦の茎のこと。旧約時代の人々はまっすぐな葦の茎を竿尺として用いたので、「測り竿」の意味にも使われます。ここから「尺度」「規準」という意味になります。聖書は信仰内容を正しく理解し伝えるための規準だからです。日々聖書を読み味わうことを、生活の基準としたいものです。

23-24連:人の成した事業について述べられている。
事業は量で量られるので、成功者はその成功を数と量で誇りやすい。他と比較して、それをする。だが業績の量だけで、その人を判断しないようにしたい。業績の陰にある隠されたものを洞察することで、本当に価値あるものが見えてくる、と作者は記している。
むしろ、この世の粗い評価が見過ごした全てのものにこそ目を留めるべきだから。それは、神からの評価のこと。世の人からは評価されなくても、神はその人を評価されるから。一生、家庭人として子どもを育て、夫を支えた女性は何の事業もしていないかに見える。しかし、その生き様は高く評価されるべきもの。そこに神の目と評価があるから。そうした神の目に気付かないと、コヘレト2章のように、あらゆる快楽を得、大事業を成し遂げようとも、結局は「すべては空しい」(1章1節)と、つぶやかざるを得なくなるのです。