神に従う人はなつめやしのように茂り
レバノン杉のようにそびえます。
白髪になってもなお実を結び
命に溢れ、生き生きとし…。(詩編92編13、15節)
かく「老い」や「老人」と聞くと、「若さ」や「若者」よりも低く見積もりがちになります。確かに力は衰えます。そのような中で、老いの素晴らしさを表現しているのが、今読んでいます長編詩『ラビ・ベン・エズラ』です。それは聖書が伝えている事です。冒頭の聖句は、その一つです。なつめやしは荒れ地や砂漠にもかかわらず、多くの実をみのらせます。1本の木に200個以上の実が、鈴なりになっています。その実は甘く、美味です。神に従う人は、そのように茂り、レバノン杉のように姿勢も真っ直ぐで、白髪になってもなお、生気に溢れています。そんな老人でありたいものです。老いにはマイナス面だけではなく、プラスの面があることに注目しています。この長編詩は「老いゆけよ、我と共に(私と一緒に、年老いてゆこう) 最善はこれからだから…」と書き始められていました。最も善いことはこれから起きる、と断言しているのです。体は衰え、弱ろうとも、そうなのです。
『ラビ・ベン・エズラ』第19連の最後の一行は次のよう。
汝は老境を待った。死を待て、恐れるな!
作者は、老境に達することを待ち望んでいた人を汝と呼んでいます。しかも、冒頭の詩92編の聖句のような老人になることを待った、のです。老境への憧れ。では、どんな老境や老人を待ったのでしょうか。惨めで、周りから疎まれる老人ではないでしょう。周囲から尊敬され、愛される老境があります。老いの先は死ですが、死の彼方に光と希望を見るから、死を恐れず超えていけます。そうした老境を待つのです。
私たちは主の再臨を待っています。異常気象やコロナ禍が続く中だからこそ、切に神の御国が実現する日を待っています。日々、「主よ、御国を来たらせてください」と、祈りつつ待っています。待つことは、忍耐が要ります。それでも待てるのは、その中に希望と喜びがあるからです。
讃美歌第2編160番3,4番。
3.待ち焦がれつつ死すとも わが魂なおほめ歌わん
ただ一つの望みなる主 疾く来ませ 疾く来ませ♫
4.花婿ついに来まさば 目の当たり見(まみ)えうる
わが身の喜びいかならん 疾く来ませ 疾く来ませ♫