『ラビ・ベン・エズラ』の第14連を読みます。
  そこで私は一休みをして後
  もう一度 勇ましく 新しい冒険に旅立とう
  次の戦闘を始める時には 恐れまい 惑うまい
  どんな武器を選ぼうか
  どんな鎧(よろい)をつけようか、と。 

前連で、「老年に青年の嗣業を授けたい」と読み、続く14連で、新しい冒険への旅立ちを歌う。老人にとって、新しい冒険への旅立ちとは何か。死である。死は、誰にとっても全く初めてのこと。だから、それに向かう前に一休みしよう。それが定年で、人生の一休み。死後に向けての準備をするための一休み。ユダヤでは、死をこのように捉える。来世を「次の戦闘」と呼ぶ。死後の安らぎと同時に、更なる戦いに向かう。えっ?永遠に安息しているのではないのかと疑問が湧くかも知れない。ヘブライでは、新しい霊体を着なければ、次の旅に出られない、と教えられている。霊魂は必ず体を必要とするから。体のよみがえりである。そのために必要なのが、神の武具で身を固めること。それが最後の一行で述べられている。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。(エフェソ612節)

最大の敵と戦う者こそ最大の戦士。この敵は主イエスも十字架を賭して戦った敵であり、私たちにとっても共通の敵。神の愛を疑わせ、神の子らを神の手から奪い取って奴隷にしてしまう勢力こそ、まことの敵であることをパウロは見抜いていた。「血肉ではない」敵こそまことの敵。それがサタン。彼は人間よりも賢く、人間を巧みに支配下に置く狡猾さを持っている。その支配下に置かれるなら、惨めな奴隷になってしまう。では、この敵と戦う武具は何か。イエス・キリストです。

晩年の三浦綾子姉は「私には死ぬという大切な仕事が残されている」と言っていた。「私たちのなすべき最後の仕事は死ぬこと、それも良く死ぬこと」とも。こんなことをブラウニングの詩から教えられる。老年の過ごし方を考え直す必要も教えられます。そして、年老いることの素晴らしさを、もっと学びたい。