ブラウニング作『ラビ・ベン・エズラ』の第13連を読みます。

 それゆえ 私は老年を招集し
 青年の嗣業を授けたい
 人生を戦って その終わりに達したのだから
 そこから私は渡って行こう、
 肉的な生き方から聖化され
 霊的な生き方へと絶えず成長するために。 

老年の者たちを呼び集めるのは、青年の嗣業を授けるためです。嗣業とは、先祖から受け継いだ相続財産を指す言葉。青年を呼び集めて、老人の経験や知恵を嗣業として授けるのが普通です。ところが、ここは逆の発想です。どういう意味があるのでしょうか。

青年の特徴は、夢と冒険心です。その精神を老人たちは忘れている、だからそれを授けたい。それが必要なのだから。預言者ヨエルは聖霊が傾注される後の日を預言しました。その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。…老人は夢を見、若者は幻を見る(ヨエル3章1節)。
ここに「老人は夢を見る」とあります。青年の特徴が「夢と冒険心」と前述しましたが、それが老年にも与えられる、のです。それは、自然にそうなるのではありません。普通は、「年を取り、体は衰えて死を待つばかり。もう何の楽しみも喜びもない」と言います(コヘレト12章1節)。希望が見えないのです。こうした者たちに、冒頭の13連が語りかけられます。詩人は、人生の終わりからどこへ渡って行こうとしているのでしょうか。動物的な生き方から、神に似た者へと成長し続ける老年期を描いています。成長すると言うより聖化され、遂には、キリストと同じ栄光のからだに変えられる栄化に至る、聖霊の働きが述べられています。死は終わりではなく、新しい生が始まる通過点だからです。そこに老人の夢があります。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(第2コリント4章16節)どうしても私たちは、目に見える外なる人(肉体)の衰えに捕われ、落胆し、内なる人である内住のキリストを見失いがちです。そして老いの坂は下り坂ばかりだ、と考えます。いいえ、そうではありません。老いの坂は上り坂です。主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る(イザヤ4031節)のです。上へと引き上げてくださる御方のゆえにです