キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは…わたしの言葉と行いを通して…働かれました。(ローマ15章18,19節)
現存する和訳聖書のルーツはギュツラフ訳聖書ですが、それは船乗りの三吉らとギュツラフの出会いがきっかけです。そして、その出会いのきっかけは嵐による船の遭難・漂流でした。神のなせる摂理の業が、背後に働いていました。すべてを益に変えてくださる神が聖書の神です。そして、聖書の神はその人に分かる言葉で語りかけられます。この世界には何千という言語があります。愛の神は分かる(理解できる)言葉を用い、そした宣教する人を用いて語られます。
まだ福音が語れていないフィリピン奥地に住む人々を救いに導こうと思ったら、現地の人の言葉で語る必要があります。聖書も現地の言語に翻訳する必要があります。冒頭の聖句から、キリストはパウロを通して働かれていることが分かります。その時、当時の地中海世界で使われていたギリシャ語で福音を語りました。それが一般庶民にも分かる言語だったからです。聖書の神は「翻訳を通して愛を示される神」です。それはパウロだけではなく、私たちを通しても働かれます。そこに、私たちへの使命が託されています。
30年間も闘病生活をされているある女性から、「もし聖書がヘブライ語とギリシャ語だけだったら、私には理解できなかった。聖書協会が私の分かる日本語に訳してくれたから、私はイエス様に出会うことができた。イエス様がおられたから、私は生きて来られた」と感謝された、聖書協会のS兄は、自分の仕事の意味を深く再確認させられた、と述懐しています。
聖書和訳の歴史はギュツラフからヘボン、ブラウンらへと受け継がれ、文語訳聖書(明治訳)と、改訂版として大正改訳聖書が出版されました。そして、戦後1955年に出版されたのが口語訳聖書です。更に、カトリックと共同した新共同訳聖書が1987年に出版されました。その間、個人訳聖書も沢山出版されました。その草創期に、ブランド兄と首藤新蔵兄、乗松雅休兄が共同で改訳を試みた『新約聖書 羅馬書(ロマ書)』(明治32年出版)があったことを覚えます。