今年の講習会の会場を名古屋にしたのは、和訳聖書のルーツである「ギュツラフ訳聖書」と深い関係を持つ地、知多郡美浜町に近いからです。そして、それに因んだ主題を選びました。副題を、船乗り三吉らの遭難・漂流と(ギュツラフとの)出会い、としました。それで講演Ⅰを「三吉らの歩んだ軌跡」とし、思いもかけない出来事に翻弄された三吉に焦点を合わせました。三浦綾子姉が『海嶺』という題を付けた意味や、作品の中で一番訴えたかったことは何だったのでしょうか?   *海嶺とは、海底の山脈の頂上のこと、ほとんど人目に触れない庶民の生きざまに似ている。

講演Ⅱでは聖書翻訳について、『ギュツラフ訳』だけでなく、もっと以前の翻訳にまで遡りたいと考えました。そして、聖書和訳のルーツから、今日に至るまでの歩みから教えられたことについても。というのは聖書の歴史は聖書翻訳の歴史だからです。ルターらによる宗教改革が起きたのも、聖書が民衆の手に届かないものになっていたからです。

ヒエロニムス(347年~420年)は20年余りをかけて旧新両訳聖書をラテン語に翻訳しました。彼はベツレヘムに移り住んで、それを成し遂げました。ベツレヘムにあるキリスト生誕教会の裏には彼の像が建てられています。その聖書はウルガータ(庶民版の意)と呼ばれ、その後長い間、聖書の原典と同じ扱いを受けるようになります。そのため、当時の教会指導者たちは、ラテン語以外の聖書を使うことを禁じました。そのため、聖書は他の言語に翻訳されなくなります。既にラテン語そのものが使われなくなっていたにもかかわらず、ウルガータ聖書だけが礼拝で読まれていました。そのため、礼拝に出ても何が読まれているのか分かりませんでした。それを例えれば、お寺で僧侶が唱えるお経と同じで、読まれている言葉は分からないまま、有り難く聞いていたようです。そこでルターは、ウルガータではなく、ヘブライ語原典から直接ドイツ語に翻訳する必要を覚えました。そして、活版印刷の発明も後押しして、ルター訳聖書はドイツ国民に「自分たちの言葉」に翻訳された聖書として愛され、普及しました。そんな時代があったことを知ると、今の私たちの翻訳聖書の現状は、ある意味、豊かになり過ぎているのではないでしょうか。新改訳だ新共同訳だと教派によって使われる聖書が違っているからです。