初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。  (ヨハネ1章1節) 

1837年にシンガポールでギュツラフ訳『ヨハネの福音書』が出版されています。漂流した三吉らとの出会いが聖書和訳のきっかけで、冒頭の聖句は次のよう。

ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノゴクラクトモニゴザル コノカシコイモノワゴクラク

「言」はキリストの意味で「カシコイモノ=賢い者」と訳しています。キリストをコトバ(言)以上に捕らえようとしたギュツラフの信仰表現と言えます。そして、神を「ゴクラク=極楽」と訳しています。Godを神と訳すと、異教の神々の1つと誤解されるのを避けるため、ゴクラクと訳したようです。しかし、仏教用語であったため、後の和訳聖書では全く用いられていません。「上帝」や「神」と訳されています。ゴザル=御座る、「いる」「ある」の尊敬語で、「いらっしゃる」「おられる」となります。以上のことからも、聖書を翻訳することの大変さが分かります。そうした経緯を三浦綾子姉は『海嶺』で、次のように記しています。

ギュツラフは岩吉・久吉・音吉を書斎に呼び、ヨハネ福音書を今日から和訳することを告げ、祈り始めました。「聖なる御神、いよいよ今日よりヨハネ伝の和訳に取りかかります。まことに小さく、弱い僕に、このような尊い仕事を与えてくださった御神を、心より讃えます…」と。そして、言(ワード)の箇所をギュツラフは「ここに書かれているワードは、只の『言葉』ではありません。…ギリシャ語にロゴスという言葉があります。このロゴスがここにいうワードなのです。それは天地を造り出す力でもありますし、善悪を判断する知恵でもあります。すべてのものを存在させている秩序でもあります。それらすべてを合わせたもの、それがここでいうワードなのです」と説明しました。ロゴスは言葉、神の理性、秩序、真理の判断者、そして創造力、それらすべてを含む深遠な意味を持つギリシャ語。そのような言葉を、日本語に訳さなければならないのだ。音吉が答えた。「善悪をわかる者は、愚か者の反対やろ。したら、愚か者の反対は、賢い者やろ」「なるほど、賢い者か、それがええな」…。こうして、ハジマリニ カシコイモノゴザル…と訳されたのかも知れません。いや、きっとそうなのに違いありません。