むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。 (ヤコブ4章15節)

私たちは、色々な計画を立てます。上記の聖句は「今日か明日、これこれの町へ行って1年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たちに対する言葉です。「よく聞きなさい。…あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」続けて冒頭の聖句がここに続きます。

コロナウイルスによって、色々な計画が延期や中止に追い込まれています。オリンピック然り、私たちの聖書講習会も然りです。これは何を意味するのでしょうか。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19章21節)。この世界の主人は私たちではなく、主なる神だということです。なのにそうは思っていないのです。だから、ヤコブは冒頭の聖句に続けて、「ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです」(16節)と書いています。箴言27章1節を参照下さい。

疫病による苦しみを、人類は幾度も経験してきました。ペスト、コレラ、スペイン風邪、そして、新型コロナと。このような事態になることを、誰が予知できたのでしょうか。まさか・・と思うことが起きるのです。人生には3つの坂があると言われます。上り坂、下り坂、そして、まさか。癌の宣告も然り、自然災害も然り。突然に思えますが、神はすべてご存知です。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレト3章1節)。だから・・・。

だから、メメント・モリ(死を自覚し、忘れるな)の心が必要です。ペストに罹患して次々と死者が出た中世ヨーロッパ。その看病に当たったキリスト者たちは、いつ自分が感染するかも知れないし、いつ死が訪れても、それは自分たちが負うべき十字架であり、そこで生涯を終えることも神の思し召しとの覚悟と備えをしていました。一日一日を、今日が最期と思う心で過ごしたいものです。そして、何を計画する時でも、主が許し給わば…と謙虚でいたい。冒頭の聖句を読み、主の御心ならば、あの事やこの事をしようと言おう。