山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
わたしの結ぶ平和の契約は揺らぐことはないと
あなたを憐れむ主は言われる。 (イザヤ54章10節)
聖書の神は契約の神です。契約は相互の約束です。お互いが交わした契約を守るのに必要なのは、誠実さです。どんな状況になろうとも、約束したことは必ず守るのが誠実さです。それは愛と言い換えられます。契約は法律用語ですが、神がイスラエルの民を愛されたからこそ、契約を結ばれたのです。このことを端的に示すのが結婚です。結婚は愛の契約です。誓約は、「その病める時も 健やかなる時も、富める時も 貧しき時も、妻(夫)として愛し 敬い 慈しむ事を誓いますか」です。それに「はい、誓います」と答えます。そして、契約の証しとして指輪交換がなされ、誓約書にサインをします。それによって結婚の契約が結ばれ司式者は2人が夫婦となったことを宣言します。
冒頭の聖句は、地上では変化が生じることを示し、それにもかかわらず、どんな状況になろうとも神の側の慈しみは移らず、結んだ契約が揺らぐことはないとの約束です。前述した結婚式の誓い(病んだり、貧しくなったりしようとも、変わることなく愛し、敬い、慈しみます)を神は誠実に守られます。しかし、人間の世界に於いては、そのような誠実さは数少ない。それを示すのが、イスラエルの民の歩みでした。守り行いますと誓約していながら、不誠実そのものでした。それを預言者ホセアは、「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも神を知ることもないからだ」(4章1節)と、指摘しています。神は愛であると共に、義なる方です。契約違反をしても大目に見て許すのは、義でも愛でもありません。不倫によって契約を破った配偶者を罰するのは当然ですが、主がなお姦淫する妻を愛されるように愛せよと、ホセアに命じました。主はそれでも見捨てず、代価を払って買い取らせました(ホセア3章)。そのことを通して、神は契約に最後まで誠実であることが示されています。その誠実さは憐れみです。契約に誠実であろうと努めても守れない弱さを、神はキリストによって憐れまれます。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる(Ⅱテモテ2章13節)。