東京都中野区のプロテスタントの教会 キリスト集会
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花かご

歎異抄と福音 -15-

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。(箴言3章5-6節)  歎異抄を1条ずつ読んでいますが、今回は第十条です。念仏には、無義をもって義とす。不可称・不可説不可思議の故に …

歎異抄と福音 -14-

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣ないなさい。(ヘブライ13章7節) 冒頭の聖句は、初代教会に於ける指導者たちのことです。具体的な名前は記され …

歎異抄と福音 -13-

主において常に喜びなさい。(フィリピ4章4節)  信仰と喜びの関係について述べたのが、歎異抄第9条です。弟子の唯円が親鸞におずおずと尋ねました。「念仏を唱えても、うれしくて躍り上がるような気持になれません。どう …

歎異抄と福音 -12-

あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリストイエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。  (フィリピ1章6節) 上記聖句の、善い業とは信仰を指します。信仰を始めたのは、決断した私だと思い …

歎異抄と福音 -11-

イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(マルコ9章23節) 半信半疑の父親に向かって、主イエスは上記のように言われた。信じる者には何でもできる、と。何でもという言葉に疑問を持つかも知れませ …

歎異抄と福音 -10-

あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 (マタイ23章8節)  これは、群衆と弟子たちに語られた主イエスの言葉で、律法学者らが「先生」と呼ばれていたことが背景 …

歎異抄と福音 -9-

だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。(マタイ12章50節)  歎異抄第5条は、親鸞は、父母の孝養(追善供養)のためのみに念仏を称えたことは、これまで一度もない…、との驚く …

歎異抄と福音 -8-

たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、 もし愛がなければ、いっさいは無益である。    (Ⅰコリント13章3節)  慈善事業と信仰。歎異抄第4条は、そのこと …

歎異抄と福音 -7-

長い間、禁書として埋もれていた『歎異抄』を蘇らせたのが清沢満之(1863-1903)でした。バッハの『マタイ受難曲』を蘇らせたメンデルスゾーンのような人でした。その清沢は、次のような話を書いています。 ある所に二軒の家が …

歎異抄と福音 -6-

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。                                (Ⅰテモテ1 …

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