皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。 (10章4節)
モーセに率いられて荒れ野を旅したイスラエルの民は、絶えず不平不満を叫びました。パンがない!水がない!と。霊的な食べ物はマナを、霊的な飲み物は岩から出た清水のことです。その水は、霊的な岩から出ました。その岩とは、荒れ野の旅路に於いて民から離れずについて来たキリストのことだと述べられています。このような旧約聖書の読み方と解釈を、パウロはしました。それはキリストに依って読む在り方です。キリストは旧約聖書が書かれる以前から先在され、働かれていたからです。聖書の中心はイエス・キリストだからです(ヨハネ5章39節)。
「千歳の岩よ」と歌い出される礼拝讃美歌があります(141番)。イエス・キリストのことが歌われています。十字架のイエスから歌い出され、最後は天上のイエスに「千歳の岩よ わが身を囲め」と審判からの守りを願っています。これを示す故事が①出エジプト17章6節と②民数記20章8節にあります。そこを開きます。
①神はモーセに言われた。「あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」と。
②神はモーセに言われた、「岩に向かって、水を出せと命じなさい」。ところがモーセは杖で岩を2度も打ったが、それは不信仰な行為でした。どうしてでしょうか。岩を打つことと命じることの違い,①の岩は地上の岩で、地上のキリストであるから十字架刑で打たれた。それによって聖霊の水が流れ出ました。しかし②の岩は天上のキリストであるから、打つのではなく信仰によって求め、命じることで命の水が流れ出るのです。岩の原語が①と②では異なっているからです.
民が生きるために必要な水は、まずキリストが私たちの罪の身代わりとして打たれ(十字架)、その後、復活と昇天され天上にいる岩なるキリストには、信仰によって命じることで与えられています。この岩は、私たちから離れずについて来て下さるキリストです。いつでも必要な時、生ける水を与えてくれる岩です。
この箇所を読みながら旧約聖書の読み方を教えられると共に、岩から水が溢れ出るという奇跡を神は今も私たちのためにして下さるのです。何という感謝でしょうか。信じて求め、命の清水を受け取りたい。