2021年7月18日
主日礼拝

《礼拝》
礼拝讃美歌⇒8番(旧2番)
『御旨のままに』

聖書⇒ヨハネの黙示録5:12節
『天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」』

礼拝讃美歌⇒27番(旧154番)
『子羊をば』

聖書⇒ヨハネの手紙一1章
『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。』

礼拝讃美歌⇒398番(聖歌196番)
『いのちのみことば』

 

《パン裂き》
聖書⇒コリントの信徒への手紙一11:23~26節
『わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。』
礼拝讃美歌⇒144番(旧59番)
『憂きこと四方に』

 

《建徳》

聖書⇒コリントの信徒への手紙一12:14~27節
『体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。』

聖書⇒コリントの信徒への手紙一12:31節
『あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。』

礼拝讃美歌⇒476番(旧266番)
『いかなる恵みぞ』

 

《建徳要旨》
「かえって必要なのです」

Ⅰコリント121427節:愛は才能ではなく賜物です。賜物は誰にでも与えられています。熱心で有能な人にだけ与えられているのではありません。そこが才能との違いです。賜物が与えられた目的は、キリストの体である教会を建て上げるためです。人間の体を例にしてパウロは、その愛について述べます。

21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らないとも言えません。これがコリント教会の姿。また私たちの現実。しかし、神が私たちに下さった体は違います。内臓同士が互いに語り合い、助け合っている実際を、テレビで見て大変驚きました。愛は相手への共感・同情を意味するシンパシ-sympathyで、「共に」と「苦しむ」の合成語。それに加えて、エンパシ―empathy自分とは違う考え方の人の立場になって想像してみる力です。それは「他の人の靴を履いてみる」と表現できます。この2つに示される賜物としての愛は誰もが与えられていますが、問題はそれを活用しているかどうかです。

22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。これは、利益第一主義や競争社会からは出て来ない言葉。弱い器官=能力の低い人や障害を負った人のこと。ある小学校の女性教師の話。「先生、大丈夫」と語りかけたのは、他の生徒よりも弱く見えるIちゃん。このような子が、かえって必要なのです。私たちは体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見出します。要らない部分は1つもない、それが私たちの体です。キリストの体=教会で、キリストを頭にしてお互いが有機的に結びついていますから、1つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみます。年取って集会のご奉仕が何も出来なくても、そこに居てくれるだけの人が「かえって必要」。そこに神の愛があり、神の国があります。

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2021-07-18 K・H兄)