<建徳>
ルカ15章11~24節:まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 ルカ15章の3つの譬話は、救いとは本来あるべきところに戻ることだと示す。そこにある大きな喜びは、あなたの神はあなたを喜びとされる(イザヤ62章5節)喜び。放蕩息子は困窮の中で、本来居るべきところが父の家だと分かった。そこでは飢える事もなく生きていられたのに …。失って初めて、それが当たり前ではなかったと気づく。その時、我(本当の自分)に返った(回心)。自分勝手で、迷惑ばかりかける放蕩息子、豚小屋の臭いニオイのする垢(あか)だらけにもかかわらず、父は走り寄って抱いた。その時、息子は何を実感しただろう。父の愛、それに初めて気づいた。あなたがたは羊のように さ迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです(Ⅰペトロ2章25節)。私たちも本来居るべき父神のもとに憩うていますが、それはキリストの十字架の贖いによる救いのゆえ。

法華経典に『長者窮子(ぐうじ)』の話がある。放蕩息子の話と似ているが、大きく違う点がある。それは、雇い人の一人として働かせるか否かにある。放蕩息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうとしたが、父は雇い人の一人としてではなく、子として迎える。他方、長者は雇い人の一人として便所掃除から始めて働かせる。修行して相応しくなってから「わが子」に迎える。そこに仏教の本質が見える。それに対して、ありのままで迎えるのが聖書の神。罪を自覚し悔い改めている息子。どんなに落ちぶれようとも、わが子として迎え、抱きしめる。自分には神の子としての資格はないと分かった者に、与えられるのが恵みだから。♫汚れし我が身も 主の血ゆえに 御父は子として抱き給う ♪ (K・H)

礼拝讃美歌 6番(遥かに迷いし罪のこの身 御父は子と)

 

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2021-01-24 K・H兄)