信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。 (ガラテヤ3章9節)

これまで通っていた歯医者さんでは駄目だと思うことがあり、思い切って変えることにしました。ネットで検索すると、沢山の歯科医院が出て来ました。沢山あり過ぎて、どこに行けば良いのだろう、と悩みました。そこで妻と一緒に祈りました。「主よ、ふさわしい歯医者さんを教えてください」と。その結果、ある歯医者さんと出会いました。

冒頭の聖句は、アブラハムの祝福を受け継ぐのは、イエス・キリストを信じるキリスト者であることを示しています。私たちはともすると、「主よ、祝福して下さい」と願います。でも、創世記12章から教えられたのは、願う前から既に「祝福されている」ことです。それは私が真面目で、良いことをしているからではありません。すべてキリストの働き(贖い)の故なのです。私ではなく、キリストなのです。

見つけた歯科医院に出かけ、そこで治療を開始し始めました。今後の治療方針などを丁寧に説明してくれ、なぜ今まで駄目だったのかも理解出来ました。ここにして良かった、と安堵しました。その日の治療を終えて外に出た時、私の脳裏に冒頭の聖句が浮かび上がりました。私はアブラハムの祝福を信仰によっていただいている!私は祝福されている!との確信でした。その時の喜び、内側から湧いて出る喜びで、足取りも軽く、感謝が口を突きました。悩んでいた歯の治療に明るい希望が見えた、そんな小さな出来事に主の祝福を見ました。以上述べたことから、どこに行ったら良いか迷うなら、主に祈ることをお勧めします。必ず導かれます。それと共に、冒頭の聖句にあるように、キリストを信じるなら、今、既に祝福されています。神の祝福こそ、何ものにも代え難い幸いの源です。
「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」(箴言10章22節) (2022年3月11日)