イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」(マタイ26章25節)

私たち夫婦は毎朝、聖書を一緒に読んで一日を始めます。日課の聖書箇所を、私は新共同訳聖書で読み、妻は新改訳聖書を読みます。一週間ほど前のことです。上記の下線箇所の訳が違っているのに気付きました。新改訳では下線部が、「いや、そうだ」となっています。レオナルド・ダビンチが描いた『最後の晩餐』が思い浮かびます。主イエスは食事中に、「この中の一人が私を裏切ろうとしている」と言われたのです。弟子たちは驚きながら、「主よ、まさか私のことでは」と次々に尋ねます。最後にユダも同じように尋ねます。それに対する主イエスの言葉です。「いや、そうだ」「いや、あなただ」ならユダが裏切り者だと皆の前で言ったことになります。ところが、新共同訳のように「それはあなたの言ったことだ」なら、ユダ本人は別にして、他の弟子たちには分からないように言われたことになります。ギリシャ語原文には、「あなたがそう言った」と書かれていました。主イエスはユダを思いやり、悔い改める機会を与えているのです。

イスカリオテのユダは、この後すぐに部屋を出て行き、敵にイエスを売ります。そして、主イエスを捕えるため、ゲッセマネの園へと兵士を誘導します。夜陰に紛れて人違いをしないようにと、ユダが挨拶の接吻をするのがイエスだと取り決めます。そして、その通りにイエスに近づき「先生」と挨拶します。それが合図です。そんなユダにイエスは「友よ、しようとしていることをするがよい」と言います。裏切り者よ、ではなく、友よと語りかけたのです。その言葉は裏切ったユダの心を打ったに違いありません。

その後、十字架刑に決まったことを知ったユダは、大変な罪を犯したと気付き、後悔します。にもかかわらず主は、こんな私を「友よ」と言ってくれた。そして、裏切り者はこいつだ、と皆に分るようには言われなかった。そこまで思いやってくれたのに・・・と自分を責め、絶望して自殺したのです。でもそれは主イエスを悲しませたでしょう。自殺ではなく、悔い改めて生きることを願われたからです。だからユダは、最後まで主を裏切ったことになります。神の愛とはそうしたものなのです。
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか(エゼキエル18章23節)。
私は恥を忍んでも、悔い改めて生きる道を選ぼうと思います。(2021年2月26日)