人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。(マルコ4章26、27節)

2月に出産した娘が、孫(娘には息子)と一緒に数日泊りに来ます。産休と育休の1年間だけだから、と車で1時間ほどの地から、毎月来てくれます。生まれたばかりの時は、私たちの顔を見ても無表情。それが成長するに連れて、私の顔を見て、ニコッと笑うようになりました。こちらも嬉しくなります。毎月来る度に、成長の度合いが分かります。半年が過ぎると離乳食です。いつの間にか、手足も大きくなり、表情も豊かになりました。9ヶ月になり、動きも大変活発になりましたが、まだ自分だけで立ち上がることは出来ません。でも少しづつ成長しています。冒頭の聖句の通りです。

種から芽を出した植物は、始めに双葉、続いて茎、次に穂が出て実を結びます。命あるものは成長します。しかし、どうしてそうなるのか知らないのです。いつの間にか成長しているからです。冒頭の聖句で強調したいのが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。神の働きである命は目に見えませんが、それなしには生き物は成長しません。

砂漠にも植物が育っていますが、なぜでしょうか。昼と夜の温度差によって露が生まれているからです。露は、人が眠っていて知らぬ間に降りています。聖書には次のようにあります。露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る(ホセア14章6節)。わたしは=神、彼=イスラエル、言い換えると私たち。日中の暑さや喧騒でぐったりしても、朝露によって力と生気が回復します。そこに神の働きと思いやりがあるのですが、それに気づきたいものです。

このブログでカルガモの事を何回か書きましたが、卵から孵った雛は、生まれるとすぐ自分の足で歩き、エサも自分で探して食べています。そして、3ヶ月もすると親鳥と同じ大きさに成長します。それに較べると、人間が自立できるのにはとても長い時間がかかっています。自分が今こうして生きているには、ここに来るまでに多くの人の助けと支えがあったことを忘れないでいたいものです。(2020年12月7日)