主を畏れ敬うこと、それが知恵
悪を遠ざけること、それが分別。(ヨブ28章28節)

ヨブと友人との論争が終わり(27章)、ヨブは、自らの幸せだった過去と辛く苦しい現在を、そして自分の潔白さを神の前に訴えます(29~31章)。その間に28章の「知恵」を作者は挿入しています。上記の聖句は、その結論です。そこに至るのに、鉱山から金銀を採掘する様子が述べられています。銀は銀山に産し、金は金山で精錬する。鉄は砂から採り出し、銅は岩を溶かして得る(28章1、2節)。鉱山の様子を、地上から遥か深く坑道を掘り、行き交う人に忘れられ、地下深く身をつり下げて揺れている(4節)と、描写しています。地下深い所で鉱石を採掘するので、人から忘れられる程。命綱に吊り下げられて作業する姿が描かれています。わが国でもこうした光景が、つい最近まで見られました。価値ある貴金属を採掘し、精錬することは遠い昔のヨブ記にも見られました。それを例に引いてから、知恵について、次のように述べています。
では、知恵はどこに見いだせるのか、分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない(12、13節)、と。
知恵は純金によっても買えず、銀幾らと値を定めることもできない。…金も宝石も知恵に比べられず、純金の器すらこれに値しない(15~17節)。知恵に至る道は誰も知らない。では、知恵はどこから来るのか、と問い、その道を知っているのは神 神こそ、その場所を知っておられる(23節)と、答えています。

頭が良い人と、知恵ある人は同じではありません。記憶力や学識の多さが頭の良い人になりますが、知恵はもっと本質的な賢さ、判断力のことです。それは神から来る知恵です。無学文盲であっても知恵ある人がいます。逆に、優秀な頭脳のエリートであっても、知恵に欠けることがあります。ヨブ記は、箴言と同じ知恵文学に属し、冒頭の聖句は箴言にもあります。ヨブに語った友人に欠けていたのが、この知恵。私たちも知恵の欠けた者。神から「知っているか、出来るか」と問われて、自らの無知と無力さを知らされます。それは、真の知恵である御方イエス・キリストを求めさせるためです。キリストこそ神の知恵そのものだからです。心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らない(箴言3章5節)ことこそ知恵ある生き方なのです。