罪人のこのわたしに、回心の恵みを与えてくださいました。…主よ、あなたは悔い改める者の神だからです。(マナセの祈りから)
外典の話をします。新共同訳聖書には続編が付いているものと、付いていないものの2種類があります。カトリックでは、続編である外典を第2正典として読まれてきました。ヘブライ語聖書には無かったのですが、ギリシャ語に翻訳された70人訳聖書には取り入れられていたからです。そして、読まれていました。しかし、宗教改革によって生まれたプロテスタント教会は、これを正典と認めず排除しました。それで、文語訳・口語訳・新改訳聖書に外典は含まれていませんでした。その存在すら知られていませんでした。個人的には、聖公会出版のアポクリファ(外典)という本があることを知っていましたが、わざわざ購入しようとは思いませんでした。それが、1987年に発行された「新共同訳聖書」によって、外典が続編として読めるようになりました。画期的なことかも知れません。
冒頭の聖句は、外典『マナセの祈り』からの引用です。最悪の王マナセが敵アッシリア王に敗れ、青銅の足枷につながれてバビロンまで連行され、苦しみの中で神の前にへりくだり祈った歴代誌下33章に基づいています。これは外典の中で一番短く、1章だけの書。さて、外典は、どうして旧約正典として認められていないのでしょうか。幾つかの理由があると思われますが、事実よりもフィクション性が高いことが理由の一つかも知れません。本当にマナセ王が書いたのだろうか、と。トビト書~マナセの祈りまでの15の書を読んで、正典との違いを探ってみました。宗教改革者たちは何故、正典から排除したのだろうか、と。明確な理由は誰も書いていませんが、霊感の違いかなと推測しています。もし、まだ読んでいないようでしたら、読んでみてはいかがでしょうか。旧約最後のマラキ書から新約時代まで、約400年の空白期間があります。そこを埋めているのが外典です。特に歴史を記したマカバイ記上下2巻です。正典はカノン(基準の意)と呼ばれ、権威があります。それだけに慎重に吟味されました。外典以外に偽典と呼ばれる書もあります。前回、記したように、福音書も幾つも存在していました。そうした中から、今の正典が選び出されました。祈りをもって書かれ、祈りをもって読まれるように、と。