『ラビ・ベン・エズラ』(第16連)
 見よ、黄昏の閉ざす頃
 照り輝く その一瞬に
 西の彼方より 囁(ささや)く細い声が胸を射る
 「この日を 他の日々に加えよ
  取り上げて その価値を調べよ
  ここに一日 消えてゆく」と。 

最後の行の一日は一生のこと。一日一生がここでは歌われています。夕闇が迫る黄昏時は、死を身近に覚える老年期を表現しています。
夕日の美しさ、荘厳さが生涯の終わりに(晩年)に例えられています。夕焼け小焼けの赤とんぼ負われて見たのはいつの日か…と歌われますが、日が沈んだ後に見える小焼け。そこに赤とんぼが思い出され、一生が回想されています。人生の最後に栄光が示され、神の臨在の輝きに包まれます。聖徒(キリスト者)の死には、そうした瞬間が現わされるものです。西の方から一つの囁く御声を聴きながら、生涯を閉じる人の姿が、ここに示されています。
知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。   (詩篇4篇3節・新改訳) 神は、御自分を信じる聖徒を特別に扱われます。だから、その生涯は死で終わらない。復活の希望で終わるからです。夕べになっても光がある(ゼカリヤ147節)。夕べとは人生の黄昏時で、光が徐々に消えて行く時間帯。人生の老年期。認知症が人知れず忍び寄る頃です。しかし、キリスト者には、天からの光が与えられ、夕暮れにも明るい光が伴います。光であるキリストが共におられるからです。
三重県の片田舎にある特別養護老人ホームを訪ねました。玄関の壁に、前述の聖句「夕べになっても光がある」と、書かれていたのが印象深かったです。キリスト信仰に立つ施設でした。

聖書に養われた詩人が、冒頭の第16連で伝えようとしたのは、自らが聴いた囁く細き声です。鬱になった預言者エリヤに神が語りかけたのも、微かな細い声でした。自分に語りかけるその声を、最期に聴くこと。それがキリスト者の特権です。讃美歌39番「日暮れて四方は暗く わが魂はいと寂し 寄る辺なき身の頼る主よ、共に宿りませ」が思い出されます。夕暮れのエマオ村で2人の弟子は復活のキリストに気付きます。人生の夕暮れに、私たちもキリストと共に宿りたい。