人のいない地、人間のいない荒野に雨を降らせ・・(ヨブ38章26節・新改訳)

自然界の中心は人間ではありません。それを創造された神が中心です。冒頭の聖句は、自分中心・人間中心に陥っているヨブへの問いかけ。誰が、そのように雨を降らせているのか、と。そのようにとは、人のいない無人の地にも雨を降らせることです。効率的な考えを私たちは持ちますから、人間の住まない荒野に雨を降らせても、収穫には何も役立たないから意味がない、と考えがちです。しかし神は、公平に恵みの雨を降らせます。父なる神は…正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる(マタイ5章45節)。そこも雨を必要とするからです。しかし人間が自然を支配すると、自分たちの利益を優先します。公平に雨を降らせないように操作し、その結果、自然破壊が始まりました。地球温暖化は恐るべき結果です。そして新型コロナウイルスは、そうした狭間から出現したと考えられます。人間が自然界の中心に立ち、自分たちの利便性だけを優先してきた罪への警告が、今回の疫病に思えます。

朝日新聞「折々のことば」から、

「人間学がしてはならないことは人間を中心におくこと、このことである」(フランクルの言葉)。人間の存在は自立も自足もしていない、つねに外部の影響に晒(さら)されてあるものだから、自分の側から見たり、自分を尺度にしたりしてはいけない。人間がすべてとなったときこそ、ヒューマニズム(人間主義)は危機に瀕する(5月26日版)。

哲学的な表現が難しく思われるかもしれませんね。

前述のヨブは自らの傲慢さを示され、神に打ち砕かれて悔い改めます。いかに自分中心・人間中心であったか、に気づきます。圧倒的な神の力と存在に触れて自らの無知と無力さを痛感し、ヨブは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます(ヨブ42章6節)。人間中心から神中心に悔い改めたヨブのように、私たちも悔い改めが必要です。コロナ(疫病)を前にして、私たちは無力であり無知だと分かりました。にもかかわらず、神は愛と慈しみ深い御方です。そこに救いと希望があります。ここまで「疫病と聖書」と題し記してきましたが、改めて、聖書が疫病と深く関わっていることを再認識できました。科学的な検証が最優先されますが、背後に働かれている神を見る必要があります。