今年の主題は、『聖書和訳のルーツを辿る』です。旧約聖書はヘブライ語で(一部はアラム語)、新約聖書はギリシャ語で書かれています。それが原典です。それを日本語に翻訳した最初がギュツラフ訳聖書と言われています。ヨハネの福音書が和訳聖書として1837年にシンガポールで出版されています。その和訳に協力・貢献したのが、船乗り三吉(岩吉と久吉と音吉)でした。知多半島の美浜町小野浦出身の船乗りたち14名は、宝順丸という千石船で米などを江戸までの輸送に出発します(1832年)。途中、嵐によって遭難、アメリカ西海岸まで1年2カ月も漂流します。次々と仲間が死んで行く中、生き残ったのが前述の三吉でした。その後も、奴隷として酷使されたりしながら、ドイツ人宣教師ギュツラフと出会います。彼は日本語も少し学んでいて、何とかして聖書を和訳したいと祈っていました。そこに現われたのが三吉(岩吉の本名は岩松)でした。神の導きと喜び、三吉らの助けを得て11か月かかって和訳しています。それがギュツラフ訳ヨハネ福音書です。
切支丹禁制の教えを信じていた三吉らは、恐れを抱きつつも聖書和訳の手助けをします。遭難・漂流した者の望郷の念は人一倍強い。故郷に帰りたい!だが、鎖国下の江戸幕府は彼らの受け入れを拒絶します。

さて、聖書を原語で読める人は多くありません。どうしても、その国の言葉に翻訳される必要があります。今,私たちは、当たり前のように日本語で聖書を読めますが,先人たちが大変な苦労を払って、今の和訳を完成してくれたお蔭です。まずそのことを今回,知りたいです。しかし今は、和訳聖書の数が多過ぎる感もします。そこで覚えたいことは、イスラムでは原典『コーラン』の翻訳を認めていないことです。アラビア語で書かれた原典がそのまま読み上げられ、語られています。とはいえそれでは意味が分からないので、自国語に翻訳され、信徒たちはそれを読んでいます。しかし、原典は神から啓示されたアラビア語だけで、翻訳されたものをコーランとは認めていません。
1つの語には幾つもの意味があり、翻訳はその解釈だからです。聖書から語る者に原語の学びが必須なのは、そのためです。とはいえ、聖書の原語が読めなくても、今、出版されている和訳聖書を通して、神は語りかけておられます。これが完璧な訳と言えるものはありません。ですから翻訳者の労に感謝しつつ読みたいものです。他の訳を批判せず、訳の違いを通して真意を探りたいものです。